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3月8日(金) [はじめての親鸞(その71)]

 さて「する」ことが自力なのは言うまでもありません。どんなことであれ何かを「する」には、それをしようと思わなければなりません。そしてしようと思うことは誰にも代わってもらうことはできません。その意味で「する」ことは自力です。
 では「いる」ことはどうでしょう。しようと思わなければ何も「する」ことができないように、いようと思わなければ「いる」ことができないでしょうか。一見そう思えます。ぼくは部屋にいようと思っているから、部屋にいるのです。いようと思わなければ部屋を出て行きます。でもすぐ前に言いましたように、部屋にいることは実は「する」ことの一種です。問題はこの世に「いる」こと、生きて「いる」ことです。
 「いる」ことは一切の「する」ことの前提条件ですから、思うことにも先んじています。何を思うにせよ、そのためにはすでに「いる」ことが必要です。としますと、いようと思うから「いる」のではありません、気がついたらもう「いる」のです。そして「いる」から、さまざまなことを思うのです。
 ときには「生きていたって仕方がない」などと思うこともあります。そしてときには実際にいのちを絶ってしまう人もいます。でも、だからと言って、いようと思うから「いる」のだとは言えません。いようと思ったり、いようと思わなくなったりするのも、「いる」からこそです。
 「する」ことはぼくが与えるものです。ぼくがいまTのキーを叩いたことは、ぼくが無から創造したのです。BでもSでもなくTのキーを叩くという新しい世界をぼくが創り出したのです。でも「いる」ことはぼくに前もって与えられています。ぼくが何かをしようと思う度に、それに先立って与えられているのです。「いる」ことが与えられているから、何かをしようと思うことができるのです。

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