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はじめての親鸞(その78) ブログトップ

3月15日(金) [はじめての親鸞(その78)]

 彼らは何故“荒れる”のか?
 同僚:「ぼくは、それが“あるがまま”の子供をひたすら肯定しようとしてきた教育観によってもたらされたと考えるのですが、あなたは逆に“あるがまま”が否定されたことによると言われる。とすれば困難を解決するためには、“あるがまま”を肯定しなければならないはずですが、あなたはそうじゃないと言われる。どうも“あるがまま”の理解に捩れがあるようです。」
 ぼく:「ぼくのことばが足りなかったかも知れません。荒れた生徒の“する”ことについて、その“あるがまま”を認めることは到底できません、“あるべき”を突きつけなければなりません。しかし彼の“いる”ことについては、その“あるがまま”を受け入れなければならないと言いたいのです。彼が何故あれほど自堕落になれるのか、もうどうとでもなれと思ってしまうのか、そこを見つめてみると、“いる”ことが認められていないと感じていることがあると思うのです。
 彼がこれまでどんな生活をしてきたのかよく分かりませんが、彼はどこかで“ぼくなんかいたってしょうがないんだ”と思い込んでいます。だから、もし彼が何かのきっかけで“ぼくがいることを誰かが必要としてくれている”、“ぼくが生きていることは祝福されている”と感じることができれば、もう大丈夫です。何も言わなくても彼は自らの“する”ことを立派に律していけるはずです。」

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