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3月21日(木) [はじめての親鸞(その84)]

 歴史historyではなく物語story。しかし両者の境界はかなり微妙です。
 例えばキリスト教のhistoryとstory。
 「キリスト(救世主)と信じられたイエスがローマの官憲に捕らえられ十字架刑に処せられた」というのはhistoryですが、「神ヤハウェの一人子イエスが人類の罪を贖うために十字架にかけられた」となりますとstoryです。
 前者は外に現れた事実ですが、後者はその内に読み取られる意味です。そして外と内とは切り離しがたく繋がっています。じゃあどこで境界線が引かれるかと言いますと、historyはそれを知っているか知らないかですが、storyとなりますと信じるか信じないかが問題となるという点です。
 このように物語は事実ではありませんが、だからと言って「ただの御伽噺」ではありません。物語にはある種の「真実」があるからです。それを信じることができるのは、そこに深い真実があるからです。ひょっとしたら「法蔵菩薩の物語」などという言い方は宗門ではご法度かもしれませんが、そうだとしたら物語というものに対する偏見があると思います。物語なんて作り話で、要するにウソの話だとする偏見。
 物語でしか語れない真実というものがあるのではないでしょうか。ぼくらはさまざまな物語を通じて人生の真実を学んできました。小さい頃は絵本の世界こそ真実の世界でしたし、少し長じてきますとこれは物語だと認識した上でそこに深い真実を味わってきたのです。

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