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3月26日(火) [はじめての親鸞(その89)]

 また話がそれるかもしれませんが、少し前に読んだ本のことです。一人の「哲学者」が、老残の身をさらす前に自分で自分のいのちの始末をつけるべきだと考え、「65歳の春。清明で健全で、そして平常心で」この世を去りました。この文句は『自死という生き方』という本の帯につけられた宣伝文です。ぼくはこの文句に半ば戸惑いながら本を読みましたが、とても嫌な読後感でした。彼が言っていることにすごい違和感がありました。彼は友人には事前に打ち明けていたようですが、家族には黙って決行したことが一番引っかかりました。家族のことをどう思っていたのでしょう。
 「これはぼくのいのちだから、どうしようが自由」でしょうか。もしぼくが彼の友人だとして、彼からそんなふうに言われたら、こう答えるだろうと思います、「ちょっと考えてみて欲しい。例えばぼくが誰かを殺そうとしているとしよう。それをきみは黙って見ているだろうか。そんなことやめろよと止めてくれるんじゃないか。きみに友情があるなら。ぼくも、きみが誰かを殺そうとしているのを黙って見ていられない。必死で止めるだろう。ところで、今きみはきみ自身を殺そうとしている。それを黙って見ていられると思うか。きみが誰かを殺すのときみ自身を殺すのとはぼくからすれば同じことだよ」と。
 戻ります。
 ぼくらはみんな「生きんかな」という願いを持っているということです。それに対して阿弥陀仏の願いは「生かしめんかな」です。ぼくらが「幸せに生きたい」と願っているのに対して、阿弥陀仏は「幸せに生かせてあげたい」と願っている。同じことを願っているように見えます。でも、前者は「自分の幸せ」を願っていますが、後者は「みんなの幸せ」を願っているのですから、そこには大きな断絶があるようにも思えます。

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