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3月27日(水) [はじめての親鸞(その90)]

 「幸せに生きたい」のはとりあえず自分ですが、できれば多くの人たちと一緒に幸せに生きたいと思います。そのためにはどうしたらいいか、どんな社会にすればみんなが幸せに暮らせるのかと夢は膨らんでいきます。こんなふうにぼくらの願いをどんどん膨らませていった先にひとつの理想が描かれます。
 さて問題は、その理想が阿弥陀仏の願い―「みんなを幸せに生かせてあげたい」―なのかということです。「幸せに生きたい」の延長線上に「みんなを幸せに生かせてあげたい」があるのでしょうか。
 昔、と言っても19世紀のことですが、ドイツにフォイエルバッハという哲学者がいました。若いマルクスに大きな影響を与えた人ですが、彼は『キリスト教の本質』という本の中で「神の本質は人間だ」と言いました。神の属性(例えば愛)は人間の属性を無限化したものだと言うのです。
 一人ひとりの人間は欠陥だらけですが、Aの欠陥はBが補い、Bの欠陥はCが埋めるというように、人類全体として捉えれば、そこに理想としての人間が描けます。それが神だと言うのです。本のどこかで「神学とは人間学だ」と言っていたように思います。この見解はキリスト教にとっては破壊的なものに違いありません。神が人間を作ったのではなく、人間が神を作ったということですから。
 その伝でいきますと、一人ひとりの願いをひとつの大きな願いに纏め上げたものが阿弥陀仏の願いだということになりますが、そのようにぼくらの願いと阿弥陀仏の願いは連続しているのでしょうか。そうではないということをこれから述べたいと思います。

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