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はじめての親鸞(その91) ブログトップ

3月28日(木) [はじめての親鸞(その91)]

 ぼくらの願いと阿弥陀仏の願いとの間にはどうしても超えられない溝があります。ぼくがぼく自身の幸せを願うことと、誰かがぼくの幸せを願ってくれることは、「ぼくの幸せを願う」という点では同じでも、絶対置き換えることはできません。
 両者を取り替えようとするのは、「あなたのお子さんのいのちは助かりません」と宣告されて取り乱した親が、「わたしのいのちと引き換えにこの子のいのちを救って欲しい」と懇願するようなものです。その思いはどんなに切なくても、自分のいのちと子どものいのちを置き換えることはできないように、ぼくがぼくの幸せを願うのと、誰かがぼくの幸せを願ってくれるのを置き換えることはできません。
 ぼくがぼくの幸せを願おうが願うまいがぼくの自由です。まあ普通は自分の幸せを願うものでしょうが、願わないことだってもちろんできます。しかし誰かがぼくの幸せを願ってくれることはぼくの自由になりません。どんなに「誰かぼくの幸せを願ってくれないかなあ」と思っても、誰も願ってくれなければそれまでです。ぼくにどれだけお金や権力があっても、こればかりはどうしようもありません。
 前に「愛をゲットすることはできるか?」を考えましたが、結論は不可でした。「愛もどき」をゲットすることはできても、真実の愛は「向こうから」与えられるしかありません。同じように、誰かがぼくの幸せを願ってくれるのも、「こちらから」は何ともできず、「向こうから」与えられるのを待つしかないのです。
 ぼくらの願いは「こちらから」で、阿弥陀仏の願いは「向こうから」。この点において両者はどうしようもなく断絶しています。

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