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3月29日(金) [はじめての親鸞(その92)]

 ぼくが「ぼくの幸せを願う」のは「こちらから」で、誰かが「ぼくの幸せを願ってくれる」のは「向こうから」。両者はどうしようもなく断絶しています。
 しかし「ぼくの幸せを願う」ではなく「みんなの幸せを願う」ことならどうでしょう。「ぼくの幸せ」の場合は、それを誰が願うか(「わたし」か「あなた」か)によってベクトルの向きが逆転しますが、「みんなの幸せ」なら、それをぼくが願おうが他の誰かが願おうが変わりはないように思えます。「こちらから」も「向こうから」もないように見えます。としますと、一人ひとりの幸せをみんなの幸せに膨らませていけば、ぼくらの願いと阿弥陀仏の願いは連続的に繋がるようにも思えます。
 ここで立ち止まって考えなければならないのは、ぼくらが「みんなの幸せを願う」と言う時、「みんな」の中には必ず「ぼく」が入っているということです。「ぼく以外のみんな」ではなく、「ぼくを含めてみんな」ということです。もっと正確に言えば「ぼくの幸せと対立しない限り、みんなの幸せ」ということで、「ぼくの幸せ」が第一条件となっています。としますと、再びベクトルの向きが問題となります。ぼくが「ぼくを含めたみんなの幸せを願う」向きと、誰かが「ぼくを含めたみんなの幸せを願う」向きとは180度違ってくるのです。
 前者は「こちらから」、後者は「向こうから」で、依然として断絶しています。

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