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4月1日(月) [はじめての親鸞(その95)]

 法蔵菩薩は一切衆生にではなく、世自在王仏に向かって「一切衆生が、わたしの願いを信じて、わたしの国に生まれようと思い、わたしの名を十回も称えて、必ずわたしの国に生まれるようにしたいと思います。そうでなければわたしは仏になりません」と誓っているのです。つまり「信じること」、「往生を願うこと」、「念仏すること」は衆生に課されているのではなく、衆生に与えられているのです。
 「一切衆生がわたしの願いを信じるようにしてあげたい、わたしの国に生まれたいと思うようにしてあげたい、わたしの名を十回も称えるようにしてあげたい、そしてめでたくわたしの国に生まれさせてあげたい」―これこそ阿弥陀仏の願いです。そう考えなければならないのは、阿弥陀仏の願いが「一切衆生を分け隔てなく救いたい」ということだからです。分け隔てがないこと、平等であること、ここに救いの本質があります。ある人は救われるが、ある人は救われないのでは救いとは言えないということです。
 「自分だけの救いはない、みんなが救われてはじめて自分も救われる」、これが大乗仏教のエッセンスです。
 ぼくは高校生たちに大乗仏教とは何かを教えるとき、芥川龍之介の『蜘蛛の糸』を取り上げたものです。娑婆世界で悪の限りを尽くして地獄に落ちたカンダタですが、生前一つだけ善いことをしました。踏み潰しそうになった蜘蛛を「おっと、こいつも生きているんだ」と助けてやったのです。極楽の蓮の池から地獄の底でもがいているカンダタをご覧になったお釈迦さまはそのことを思い出し、一本の細い蜘蛛の糸を地獄に垂らしてやります。カンダタはやれ有難いとその糸をよじ登るのですが、途中でふと下を見ると、何と地獄の住民どもが次々とその糸にぶら下がっているではありませんか。驚いたカンダタは「こらっ、みんな降りろ、この糸はオレのものだ」と叫んだ。そのときです、糸はカンダタの手のところでプツンと切れ、地獄の底に真っ逆さま。

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