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4月2日(火) [はじめての親鸞(その96)]

 この話、「自分だけの救いはない、みんなが救われてはじめて自分も救われる」という大乗の教えを見事に表していると思うのですが、ただ一つ不満があります。お釈迦さまのことです。お釈迦さまは一部始終を極楽の蓮の池からご覧になっている。これがどうにも腑に落ちないのです。この話では、糸が切れてカンダタがまた地獄の血の池に落ちていった様子を見ながら、お釈迦さまはカンダタの浅ましさに悲しそうな顔をされたというのですが、カンダタが地獄に舞い戻るのは仕方がないとしても、お釈迦さまはそのまま極楽におられるというのが納得いきません。
 作品の中でお釈迦さまの様子はどのように描かれているのか、『蜘蛛の糸』の最後の部分を読んでみましょう。
 「御釈迦様は極楽の蓮池のふちに立ってこの一部始終をぢっと見ていらっしゃいましたがやがてカンダタが血の池の底へ石のやうに沈んでしまひますと、悲しさうな御顔をなさりながら、又ぶらぶら御歩きになり始めました。自分ばかり地獄から抜け出さうとする、カンダタの無慈悲な心が、さうしてその心相当な罰をうけて、元の地獄へ落ちてしまったのが、御釈迦様の御目から見ると、浅間しく思召されたのでございませう。」
 お釈迦さまがカンダタの心を「浅間しく思召された」のは全く文句ありません。でも地獄の底に落ちていったカンダタを見て「悲しさうな御顔をなさりながら、又ぶらぶら御歩きになり始め」られるのは、お釈迦さまには大変失礼ながら、お釈迦さま自身の教えと食い違うのではないかと思うのです。カンダタが地獄の血の池で苦しみもがいているとすれば、それはお釈迦さま自身の苦しみでもあるはずで、それを思えば極楽の蓮池のほとりをぶらぶら歩くことなどできないのではないでしょうか。

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