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はじめての親鸞(その98) ブログトップ

4月4日(木) [はじめての親鸞(その98)]

 戻ります。ぼくには「蜘蛛の糸」の話よりも法蔵菩薩の話の方がよほど有難い。法蔵菩薩は「最後の一人が救われるまで、自分も救われない」と誓われた。これこそ大乗の教えそのものです。
 ところで平等には二つの意味があります。「平等であることに救いの本質がある」という場合の平等と、「人間は生まれながらに平等である」という場合の平等です。前者は文字通りの平等ですが、後者は「権利において平等」の意味です。ぼくらが普通に「みんな平等だよ」と言うときは、後者の「権利において平等」の意味で使っています。
 福沢諭吉の「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」は有名ですが、諭吉先生が言いたいのは、「人は本来貴賎上下の別がない」ということよりも、そうであるにもかかわらず現実に賢い人と愚かな人、貧乏な人と豊かな人、身分の高い人と低い人がいるのは何故かということです。それは一人ひとりが学問をするかどうかによって決まるのだと言いたいのです。もう血筋がいいか悪いかとか、家柄がいいか悪いかではなく、一人ひとりがどれだけ努力するかどうかが問われているのだ、それがこれからの社会なのだと諭吉先生は説いているのです。
 もし阿弥陀仏の願いが「わたしの願いを信じて、わたしの国に生まれようと思い、わたしの名を十回も称えれば、わたしの国に生まれさせてあげたい」ということでしたら、みんな平等に救われるとは言っても、それは「権利において平等」であって、実際には救われる人と救われない人が出てきます。「わたしの願いを信じる」ことができない人、「わたしの国に生まれようと思う」ことのできない人、「わたしの名を十回も称える」ことのできない人がいるからです。

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