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はじめての親鸞(その99) ブログトップ

4月5日(金) [はじめての親鸞(その99)]

 やはり「わたしの願いを信じるようにしてあげたい、わたしの国に生まれたいと思うようにしてあげたい、わたしの名を十回も称えるようにしてあげたい、そしてめでたくわたしの国に生まれさせてあげたい」であってはじめて、ひとり残らずみんなを救いたいという阿弥陀仏の願いに相応しい。
 法然は『選択本願念仏集』でこの願いの意味を次のように説明してくれます。
 「もし仏像を造ったり塔を寄進することが本願でしたら、お金のないものは望みを絶たれてしまいます。しかもお金のある人は少なく、お金のない人はとても多い。もし智慧があったり才能があることが本願でしたら、愚かなものは望みを絶たれてしまいます。しかも智慧のあるものは少なく、愚かなものはとても多い。もし学問のあることが本願でしたら、学問のないものは望みを絶たれてしまいます。しかも学問のあるものは少なく、学問のないものはとても多い。もし戒律を守ることが本願でしたら、戒律を守れないものは望みを絶たれてしまいます。しかも戒律を守れるものは少なく、戒律を守れないものはとても多い。…そこで法蔵菩薩は、平等の思いを持って、一切の衆生をあまねく救うために、仏像を造ったり塔を寄進することなどではなく、ただ名を称えることだけを本願とされたのです」。
 実に分かりやすい。救いのためのハードルが高いと、ごく一部の人しか救われなくなりますが、それでは一切衆生を平等に救いたいという法蔵菩薩の悲願が空しい。そこで法蔵菩薩はそのような高いハードルをはずして「ただ称名念仏」だけを選らばれたのだというのです。

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