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はじめての親鸞(その100) ブログトップ

4月6日(土) [はじめての親鸞(その100)]

 確かに「南無阿弥陀仏」と称えるのは易しいから、誰にでもできるでしょう。これまでは一部のエリートだけに開かれていた狭き門が、ごく普通の民衆にも開かれたのです。法然の専修念仏(「ただ念仏のみ」)の教えがみるみる拡がったのは、そしてそれに対して南都北嶺(興福寺や延暦寺)が強い危機感を持ったのは非常によく分かります。
 しかし、ここで立ち止まらなくてはならないのは、称名念仏はどれほど低いハードルでもハードルであることに変わりはないということです。軽く跨ぐだけで越えられるハードルであっても、それがハードルである以上、跨がなければならないということです。もしそのハードルを越えようとしないで引き返す人がいたらどうでしょう。「その人は救われたくないのだから、何ともならないよ」という声がします。しかし、ある人は救われるがある人は救われないのではほんものの救いと言えません。みんなが救われてはじめて自分も救われるのです。
 第十八願は救いの門をみんなに広く開いたとしても、やはり救いには門があるということになります。その門をくぐらなければ救いに到達できない。
 大学に入るには入学試験という門があります。入学試験の合格最低点を60点などとしますと、多くの人は門をくぐれなくなりますから、思い切って0点でもいいとしましょう。これだと試験を受けさえすれば合格ということですが、それでも受けようと思わなければ大学には入れません。門をくぐろうと思わなければ大学には入れないのです。そして門というものは、あるとき一度だけくぐればいいというものではありません。毎日くぐり続けなければなりません。大学に入れたからもういいやと門をくぐり続ける努力をしなければ大学に入ったことにはなりません。門はいつも前にあるということです。一度くぐってもまた前に門が現れます。くぐっても、くぐっても常に門は前にあります。

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