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4月10日(水) [はじめての親鸞(その104)]

 くどいようですが、もう一度念押ししておきたきますと、「わたしの願いを信じること」(信心)、「わたしの国に生まれたいと思うこと」(欲生)、「わたしの名を十回も称えること」(念仏)は、「わたしの国に生まれること」の条件ではありません。それらは衆生に「課されている」のではなく「与えられている」です。でなければ、阿弥陀仏の救いは平等の救いではなくなります。
 としますと、どうして往生を与えるだけでなく、信心、欲生、念仏が同時に与えられるのでしょうか。信心や欲生、念仏とは一体何でしょうか。章を改めて考えたいと思います。
   第5章 信じる
 最初に結論を言っておきますと、阿弥陀仏が一切衆生の往生を願っていることに気づかれなければ、阿弥陀仏の願いは空しいからです。「願いを信じること」、「往生したいと思うこと」、「念仏すること」のどれも阿弥陀仏の願いに「気づく」ことに他なりません。
 これまで何度「気づく」ということばを使ったことでしょう。例えばこんなふうに言いました。内部に閉ざされている人には外部があることを知る手立てがありません。外部があることは外部から知らせてもらうしかなく、そうしてはじめて外部があることに「気づく」のだと(これが他力の意味でした)。
 プラトンに「洞窟の比喩」という説話があります。人間は生まれてこの方ずっと洞窟の中に住んでいて、外には太陽の光に照らされた明るい世界があることを知る由もないと言うのです。井の中の蛙が大海を知らないように、洞窟の住人は青空の下に広がる外界があることに気づかないまま一生を過ごすのだと。

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