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4月11日(木) [はじめての親鸞(その105)]

 外界があることに気づくことなく一生を終える人にとって外界は存在しないままです。阿弥陀仏の願いもそれに気づかない人にとっては存在しません。
 故郷を遠く離れて暮らす子どものことを思って「困ったことがあったらいつでも帰っておいで」と願うのが親というものです。あるとき子どもがふとそのことに気づきますと、もう多少の困難にめげることはありません。自分のことを思ってくれている親の顔を胸に踏ん張ることができます。でもそんな親の願いが子どもに気づかれないままですと、どんなに切ない願いも空しいと言わなければなりません。
 阿弥陀仏の願いに「気づく」こと、これが「信じる」ことです。
 親鸞はこの信じるということを何よりも大事にした人です。親鸞以前は「行の仏教」だとしますと、「信の仏教」をたてたとも言えます。阿弥陀仏の願いを信じられたら、もうそれだけですでに救われているのだと。さてしかし、「信じれば救われる」と言われても、そうやすやすと信じられるものではありません。特に近代科学の洗礼を受けたぼくらは、これまで信じられてきたことをまず疑ってかかる癖がついています。
 そもそも近代哲学は疑うことからスタートしたのでした。デカルトはあらゆることを疑い、疑いつくして、その果てに「疑っている自分がいる」ことはもう疑えないことに思い至りました。これが信じるということでしょうか。これは疑わしい、これも疑わしい、と一つひとつ捨てていき、これはもう疑えないから信じようというのが信じるということでしょうか。そうだとしますと、疑うことと信じることは同じ手つきをしています。

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