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はじめての親鸞(その108) ブログトップ

4月14日(日) [はじめての親鸞(その108)]

 大羽鰯のいのちをいただかなければ生きていけない自分に、大羽鰯たちが仲間のとむらいしながらも「それでいいのだ」と言ってくれている声がする。耳を澄まして聞くのではありません、ふと聞こえてくるのです。こちらから声をキャッチするのではありません、向こうからやってくる声に自分がキャッチされるのです。
 親鸞は『教行信証』の序文でこんなふうに言っています、「遇ひがたくしていま遇ふことをえたり、聞きがたくしてすでに聞くことをえたり」と。「遇う」については第1章で述べました。あいたくてあうのが「会う」であるのに対して、思いがけずあうのが「遇う」です。ここで「聞く」というのも、聞きたくて聞くのではなく、向こうからやってくる声がふと聞こえるということです。
 このことばで面白いのは「いま」と「すでに」が並べられていることです、「いま遇ふことをえた」のに、「すでに聞くことをえたり」と言うのです。この一見矛盾した言い回しには何か大事なことが隠されているような気がします。「いま聞こえた」と言う時、すでに聞こえていたのだが、これまで気づかなかった。たったいま聞こえていることに気づいたというニュアンスがあります。
 健康診断で聴力検査を受ける時、無音室の中でヘッドホンからかすかな音が流れてきて、それが聞こえたらボタンを押して知らせますが、あれは音量を次第に大きくしていき、どの時点で聞こえたかを調べているのです。音はすでに流れています。ただ余りに小さくて聞き取れないだけです。ある音量になった時、「あっ、いま聞こえた」となる訳です。ですから、「いま聞こえた」は「すでに聞こえていた」を含意しているのです。「すでに聞こえていたことにいま気づいた」ということです。

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