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4月15日(月) [はじめての親鸞(その109)]

 『歎異抄』の冒頭に「念仏申さんとおもひたつこころのをこるとき、すなはち摂取不捨の利益にあづけしめたまふなり」のくだりがあります。この短い文章に親鸞の思想のエッセンスが凝縮されています。「摂取不捨」とは「弥陀の光明に包み込まれる」ということで、「あゝ、救われたという喜び」と受け取ってください。そして「すなはち」は「直ちに」ということです。ですから「ふと念仏申そうかと思った時、直ちに、あゝ救われたという喜びに与ることができるのです」という意味になります。
 でも、ぼくはこの文章を読むたびに、「すなはち」を「すでに」と読みたくなるのです。そう読むように背中を押されている気がするのです。「念仏申さんとおもひたつこころのをこる」のは「いま」ですが、そのときはじめて「摂取不捨の利益にあづけしめたまふ」のではなく、「すでに」摂取不捨の利益に与っていることにそのとき気づくのです。「すでに」摂取不捨の利益に与っているのですが、そのことに「いま」気づくのです。ですからこうなります、「ふと念仏申そうかと思ったときが、あゝ、すでに救われているのだと気づかせてもらえたときです」と。
 もう一度「遇ひがたくしていま遇ふことをえたり。聞きがたくしてすでに聞くことをえたり」に戻りますと、本願に「いま」遇うことができたのですが、その時気づいたのです、「すでに」本願の声が聞こえていたことに。ずっと以前から聞こえていたのに、いままで気づかないままだった。いまようやく気づかせてもらったのです。ここから「たまたま行信をえば、とをく宿縁をよろこべ」の述懐が生まれます。

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