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4月17日(水) [はじめての親鸞(その111)]

 「与えられる信」はと言いますと、信じる人と信じられる何かとを分けることができません。
 ぼくがぼくとは別の何かを信じるのではなく、何かが向こうからやってきて、ぼくをキャッチして離さないのです。本願の声が聞こえてきて、ぼくのこころにしみわたります。こちらにいるぼくが向こうにある本願を信じているのはありません。本願の声がぼくを喜びで包み込んでいるのです。これが「与えられる信」です。ですから、騙されてもちっとも悔しくありません。
 「与える信」と「与えられる信」、前者にはどこまでも一抹の不安がつきまといますが、後者には抜けるような喜びがあります。  
 親鸞の書くものを読んでいますと、「歓喜」ということばにしばしば出会います。念仏と言えば、とかく「世を厭う」という匂いが染み付いていて、生きることは喜びであるよりは悲しみであり、楽しみではなく苦しみだという印象を与えます。「厭離穢土、欣求浄土」ということばにつきまとう厭世観、これが若い人たちを念仏の教えから遠ざけている最大の要因ではないでしょうか。ところが親鸞は生きる喜びを語ります。念仏とは喜びであると説くのです。
 それはそうでしょう、「このまま生きていていいのか」と悶々としていたのです。そこへあるとき、「そのまま生きていていいのだ」という声が聞こえるのですから嬉しくないはずがありません。腹の底から突き上げるような喜びが湧き起こります。

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