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はじめての親鸞(その115) ブログトップ

4月21日(日) [はじめての親鸞(その115)]

 善導というお坊さんがいます。中国の唐の時代の人で、浄土教の歴史の中で抜きん出て輝く人物です。法然が善導の書いた『観無量寿経疏』の一節、「一心に南無阿弥陀仏と称えて、居ても立っても、時の長短に関係なく南無阿弥陀仏を捨てない、これこそ往生への正しい道です。それが阿弥陀仏の願いに他ならないからです」を読んで目を開かされたという話は有名です。それまで万巻の書を読んでもすっきりしなかったのが、この一節で一挙に雲が晴れた。
 その『観無量寿経疏』の中で善導は「信じる」ということについて深い思索を展開しています。二種深信と呼ばれるものです。
 「ひとつには、自分は紛れもなく罪深く迷いの中にある凡夫で、はるか昔からずっと生死の海を流転してきて、そこから抜け出る縁などあるはずがないと深く信じることです。ふたつには、阿弥陀仏の四十八願は衆生を疑いなく救いとってくださるから、その本願の力にお任せしていれば必ず往生できると深く信じることです」。
 ひとつ目の「こんな罪悪生死の凡夫が救われるはずがない」と信じるのを「機の深信」と呼び、ふたつ目の「阿弥陀仏の本願はそんな凡夫を救ってくださる」と信じるのを「法の深信」と呼ぶのです。「機」とは自分、「法」とは本願のことです。
 「こんな自分が救われるはずがない」と「そんな自分がそのままで救われる」。

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