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4月23日(火) [はじめての親鸞(その117)]

 もし機の深信が法の深信の前提条件として不可欠だとしますと、救いが無条件ではなくなります。機の深信というハードルを越えられる人だけが救いに与れることになります。つまり機の深信が自力になってしまうのです。自力の機の深信の上に他力の法の深信があるという構造になります。これはしかし善導の二種深信にも親鸞の他力思想にも根本的に反します。機の深信を持てるかどうかが法の深信に与れるかどうかの条件となり、絶対平等の救いではなくなってしまいますから。
 機の深信と法の深信とが別ものではないということについて、もう少し続けたいと思います。
 親鸞という人は本当に機の深信の人だなあと感じます。先ほどの「とても地獄は一定すみかぞかし」や「そくばくの業をもちける身」ということばもそうですが、親鸞の書いたものを読んでいますと、突然深い詠嘆のことばが現れます。
 『教行信証』の「悲しいことに、わたくし愚禿親鸞は愛欲の煩悩に溺れ、名利の迷路をさまよって、正定聚の中に入ったことを喜べません。真実のさとりに近づいたことを楽しめません。恥ずかしいことです。情けないことです」の一節がよく知られています。
 こうしたことばは、本願に遇えた喜び、本願を聞かせてもらえた喜びのことばの直後に出てきたりします。ですから「突如」という感じを与えるのですが、本願を聞くことができた喜びと、己の煩悩を見つめる悲しさとが同居しているのです。
 喜びと悲しみが背中合わせにくっついています。

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