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4月24日(水) [はじめての親鸞(その118)]

 「われらは煩悩具足の凡夫」―これが機の深信です。「煩悩具足の凡夫がそのままで救われる」―これが法の深信です。
 この二つで「われら煩悩具足の凡夫がそのままで救われる」というメッセージとなります。「われらは煩悩具足の凡夫」だけでは「救い」がありません。また「煩悩具足の凡夫がそのままで救われる」だけでは「われら」がいません。やはり二つで「われら煩悩具足の凡夫がそのままで救われる」という完全なメッセージとしてわれらに届くのです。
 「われらは煩悩具足の凡夫」と身に沁みて思うのは「煩悩具足の凡夫がそのままで救われる」という声が心に沁みているからですし、「煩悩具足の凡夫がそのままで救われる」という声が心に沁みるのは「われらは煩悩具足の凡夫」と身に沁みて思うからです。どちらもそれだけでは成り立たず、互いに互いを必要とするのです。
 しかし、互いに互いを必要とするなら、はじめから一つであればよさそうなものなのに、どうして二つに分かれるのでしょうか。オスはメスを必要とし、メスはオスを必要とするなら、はじめから一つであればいいのに、どうしてオスとメスに分かれているのかという疑問に似ています。
 例えば「一切衆生はそのままで救われる」だけでいいのではないでしょうか。機の深信も法の深信もなく、ただ「みんなそのままで救われる」と聞こえるだけでよさそうに思います。「一切衆生悉有仏性(一切の衆生にことごとく仏性あり)」とはそういうことでしょう。
 しかし残念ながらその形ではぼくらの心に届かないのです。

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