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4月25日(木) [はじめての親鸞(その119)]

 「一切衆生はそのままで救われる」ではぼくらの心に届かないのはどうしてかと言いますと、ぼくらは「今救われていない」という現実にもがいているからです。それがすべての出発点でした。今救われていないと思っていない人には、ここでお話していることはすべて無意味です。今現に救われていないから、どうにかして救われたいとジタバタしているのです。
 今現に救われていないともがいているのに、そのままで救われていると言われても、その声はすんなりとは入ってきません。「お前が苦しんでいるのはお前の煩悩の所為なんだ、だけどみんな煩悩を持ったままで救われるのだよ」と言ってもらってはじめて胸に沁みるのです。
 前半の「お前が苦しんでいるのはお前の煩悩の所為だ」が機の深信で、後半の「みんな煩悩を持ったままで救われるのだ」が法の深信です。このように、機の深信が今現に救われていないという苦しみと、もうすでに救われているという喜びを繋いでくれているのです。
 さて、救われていない自分にもがき苦しむのは紛れもなく自分自身ですが、そういう自分を「罪悪生死の凡夫」と見定めるのは自分でできることではありません。「とても地獄は一定すみかぞかし」などという述懐は自分の中から出てくるものではありません。
 ぼくらは「自分はしようもない人間だ」と思っても、心の片隅で「こんな自分だけど、見どころがない訳じゃない」と自分をかばっています。どこかで「まだ捨てたものじゃないよ」と感じています。

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