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5月3日(金) [はじめての親鸞(その127)]

 そこからしますと、善人に好感を持ち、悪人に嫌悪を感じるのは自然の理にかなっています。身体に必要なものをおいしいと感じ、不要なもの、あるいは害をもたらすものをまずいと感じるのと同じです。それは自己防衛反応なのです。ですから「どんな悪人も善人と同じように救われる」などということがあってはいけません。救いは善人のものであり、悪人はそこから排除しなければなりません。そうでないと正義が実現しないからです。ぼくらは悪いヤツがのーのーと生きているのを見るだけで無性に腹が立ちます。世の中間違っていると感じます。
 しかし、悪いヤツがのーのーと生きているのを見ると腹が立つのはどうしてでしょう。前に「割り込み」について考えましたように、突き詰めれば、自分も同じことがしたいからではないでしょうか。自分も悪いことをしてのーのーと生きていきたいのです、実は。でも、そんなことをすると社会の秩序が成り立たなくなると思いますから、じっと我慢しているのです。かくして、自分はこんなに我慢しているのに、あいつはけしからん、と腹が立ってくる。
 「わが身可愛い」。
 この思いのない人がいたら、悪いヤツがのーのーと生きているのを見ても、腹が立つことはないでしょう。哀れに思うかもしれませんが、「何だあいつは、けしからんヤツだ」とは思わないでしょう。自分は何も我慢していないのですから。我慢して善いことをしている善人が、我慢できずに悪いことをする悪人を「許せん」と思うのです。我慢して善いことをする善人も、我慢できずに悪いことをする悪人も同じように「わが身可愛い」のです。

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