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はじめての親鸞(その128) ブログトップ

5月4日(土) [はじめての親鸞(その128)]

 この「わが身可愛い」に気づきませんと、「そのままで救われる」という声も遮断されてしまいます。だから「この経(『無量寿経』)をききて信ずること、かたき(難き)がなかにかたし、これにすぎてかたきことなし」となるのです。そしてここから「善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」の逆説が出てきます。
 善人も悪人も「わが身可愛い」のに、善人はその自覚がありません。善人も「わが身可愛い」を我慢しているだけなのですが、それが意識下に閉じ込められてしまうのです。それに対して、我慢できずに悪いことをしてしまう悪人は、いつも自分の中の「わが身可愛い」と顔を突き合わせて生きています。
 自分の中に「わが身可愛い」があるのに、それに気づかない善人は「どんな悪人も救われる」という声を遮断してしまいますが、自分の中の「わが身可愛い」といつも顔を突き合わせている悪人は、この声が砂地に水が沁みこむように浸透するのです。「こんな自分は救われるはずがない」という思いが生まれたその刹那に「どんな悪人もそのままで救われる」という声が心に沁みるのです。
 いかがでしょう、やはり「善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」と言わなければなりません。
 以上で「第5章 信じる」が終わり、次回から「第6章 称える」が始まります。「本願を信じ念仏をまうさば仏になる」(『歎異抄』第12章)の「念仏をまうす」ことについてお話したいと思います。

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