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5月5日(日) [はじめての親鸞(その129)]

         第6章 称える
 「本願を信じ念仏をまうさば仏になる」、これが浄土の教えでした。前章では「本願を信じる」ということを見てきました。次に、「念仏をまうす」こと、つまり「称える」ことを見なければなりません。
 第十八願は、「一切衆生がわたしの願いを信じ、わたしの国に生まれようと思い、わたしの名を十回も称えて、必ずわたしの国に生まれるようにしたい」ということでしたが、「本願を信じる」ことと並んで、この「名を称える」こと、称名念仏は浄土の教えの要です。しかし、これがぼくらにとって大きなネックになります。『無量寿経』に説かれた法蔵菩薩の物語に真実を感じても、実際に「南無阿弥陀仏」と称えるとなりますとそこに大きな抵抗が生まれるのです。
 少し前になりますが、ある浄土真宗の講座に参加させていただきました。講師大学の先生であると同時にお寺の住職でもある若い方で、非常に明快な話し方をされます。この方の問題意識は、この頃念仏の声がますます少なく、ますます小さくなっているのではないかというところにあるようでした。門徒さんばかりでなく自分たち僧侶も念仏をすることが減っているのではないかという危機感を持たれていました。
 家永三郎氏についての話が印象的でした。家永さんは有名な歴史学者で、教科書裁判で活躍された方ですが、親鸞の他力思想を高く評価する一方、念仏に関しては「親鸞も呪術性から抜け出していない」というように批判しているそうです。知識人と言われる方々で、親鸞の思想に魅力を感じる一方、「念仏はどうも」という人が多いのはなぜでしょうか。

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