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はじめての親鸞(その131) ブログトップ

5月7日(火) [はじめての親鸞(その131)]

 法然門下に一念義(念仏は一念で足りる)と多念義(行住坐臥の念仏が肝心)の対立があったことも、このエピソードの背景にあるのかもしれません。しかし、「信か行か」、「一念か多念か」と争うこと自体、信心や念仏を根本的に捉えそこなっているというのが親鸞の他力思想です。
 どうして「信心か念仏か」というような問いが生まれてくるかと言いますと、信心によって救われるか、それとも念仏によって救われるかと問うからでしょう。
 救われるためには信心が大事か、念仏が大事かと考える訳です。この発想では、信心や念仏が救われるための条件となっています。「信じれば救われる」、あるいは「念仏すれば救われる」と。しかし、そう考えた途端に救いは他力ではなく自力になってしまいます。「こちらから」手に入れるものになってしまい、平等の救いではなくなってしまうのです。
 よく言われるのは、信心は念仏を伴わなければならず、念仏は信心を伴わなければならないということです。
 本願を信じた上で念仏してこそ往生できるのであって、念仏のない信心も、信心のない念仏も詮無いと。これは非常に分かりやすく、もっともな言い方だと思いますが、どこか違和感が残ります。親鸞の言い方をまねるなら「そこのゆきつかぬやうに」感じてしまいます。「まず本願を信じ、その上で念仏する、そうすれば往生できる」と言われますと、何だか「ホップ、ステップ、ジャンプ」のようで、どうも違うなあと感じるのです。

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