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はじめての親鸞(その133) ブログトップ

5月9日(木) [はじめての親鸞(その133)]

 しかし親鸞にとっては「そもそも信心と念仏は一体である」のです。ですから「念仏を伴わない信心」も「信心を伴わない念仏」も、あってはならないのではなく、そんなものはないのです。ただのナンセンスです。そして「念仏を伴う信心」も「信心を伴う念仏」も、そうあるべきなのではなく、元々そうなのです。そうでしかありえないのです。
 なぜかと言えば、「行と信とはお誓い」だからです。行も信も詰まるところ阿弥陀仏の誓願ですから、一体なのです。誓願があって、それをぼくらが信じ、その上で念仏するのではありません。誓願がそのまま信心です。そして誓願がそのまま念仏です。したがって信心がそのまま念仏です。
 ここは肝心のところですから、きっちり見ておきましょう。まず「誓願がそのまま信心」であること。
 ぼくらはややもすると、向こうに誓願があり、こちらに信心があると思っています。「相手の言うことを信じる」というとき、向こうに相手の言うことがあり、こちらに信じることがあるように、誓願を信じるというのも、向こうに弥陀の誓願があり、こちらにそれを信じるこころがあると。つまり、誓願は誓願として存在し、それとは別に信心というものがあると考えています。そして両者が合体して誓願はぼくらのものとなると。
 弥陀の誓願にぼくらの信心が付け加わってようやく誓願は誓願としての役割を果たすことができるというイメージです。しかし誓願はそれに何かが付け加わらなければならないようなものではなく、おのずからこちらにやってきて、ぼくらを鷲づかみにするのです。それが信心に他なりません。ですから、同じことがらが、弥陀の側から言えば誓願ですし、ぼくらの側から言えば信心なのです。決して向こうに誓願があり、こちらに信心があるのではありません。

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