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5月10日(金) [はじめての親鸞(その134)]

 次に「誓願はそのまま念仏」であること。
 先の場合と同じように、ぼくらはともすれば、向こうに誓願があり、こちらに念仏があると思います。向こうに念仏すれば救おうという誓願があり、こちらにそれに応じる念仏があるのだと。ですから、誓願とそれに応える念仏がそろってはじめて往生が実現するというイメージです。しかし、再度言いますが、誓願はそれに何かが付け加わってはじめて完結するようなものではありません。
 誓願とは「生きとし生けるものをそのまま救いたい」という願いであり、それが「なむあみだぶつ」に凝縮され、おのずからぼくらのもとに届けられるのです。そのとき喜びのこころとともに「なむあみだぶつ」の声が口をついて出てくる。これが念仏に他なりません。ですから、同じものが弥陀の側から見れば誓願ですし、ぼくらの側から見れば念仏なのです。決して向こうに誓願があり、こちらに念仏があるのではありません。
 誓願はそのまま信心であり、誓願はそのまま念仏。かくして信心と念仏は別ものではないということになります。
 誓願はそのまま信心であるという点については第5章で詳しく述べてきましたのでいいと思いますが、誓願がそのまま念仏であるということは、これだけではまだまだ納得していただけないでしょう。信心とは「向こうから」やってくる声に「気づく」ことですから、その声がそのまま信心だということは受け止めやすいですが、念仏は口で「なむあみだぶつ」と称えるのですから、誓願がそのまま念仏などと言われても胸にストンと落ちるものではありません。

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