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5月13日(月) [はじめての親鸞(その137)]

 どうして第十七願が念仏の根拠となるのでしょう。この願において、「わたしの名」を称えるのは諸仏であって、われわれ往生を願う衆生ではありません。もちろん行とはいうものの、こちらから励むものではなく、仏の大行が向こうから与えられるものであることはこれまでから明らかです。しかし少なくとも「無碍光如来のみなを称する」のが「われわれ」でなければ、それを行という意味がないではありませんか。いろいろな本に当たってみたり、人に訊いてみたりしましたが、なかなか埒があきませんでした。
 あるとき、第十七願の引用に続いて『無量寿経』から引かれている次のくだりに目が止まりました。「わたしが仏のさとりを得たとき、わたしの名を広くすべての世界に響かせよう。もし聞こえないところがあるなら誓って仏にはなるまい」。ほのかに何かが見えてきたような気がしました。諸仏が「わたしの名」を称えるのは、「わたしの名」を広くすべての世界に聞かせるために他ならないようです。
 もう少し先を読んでみますと、『大阿弥陀経』(『無量寿経』の異訳です)からこんな引用があります。「わたしの名号をすべての世界の数限りない多くの国々に聞こえわたらせ、仏がたに、それぞれの国の比丘たちや大衆の中で、わたしの功徳や浄土の善を説かせよう。神々や人々をはじめとしてさまざまな虫のたぐいに至るまで、わたしの名号を聞いて、喜び敬う心をおこさないものはないであろう」。
 そうなのです、「諸仏」が「わたしの名」を称えるのは、「われわれ」衆生に「わたしの名」を聞かせて喜ばせようとしてのことに他ならないのです。

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