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5月14日(火) [はじめての親鸞(その138)]

 諸仏が「わたしの名」を称えますと、世界中に「わたしの名」が響きわたり、われわれの耳に届きます。ぼくらは「名を称える」と言われますと、すぐさま名を「口にする」ことを考えますが、それよりも前にまず名を「耳にする」ことがなければなりません。名号と言いますと「称える」ことに意識が行ってしまい「聞く」ことを忘れてしまいがちです。でも名号というのはそもそも聞こえてくるものなのです。
 どこかから「南無阿弥陀仏」の声が聞こえてくる、これが疎かにされていないでしょうか。称えること(称名)ばかり強調されて、聞くこと(聞名)が忘れられているように思うのです。『歎異抄』の「念仏まうさんとおもひたつこころのをこるとき」とは、どこからか念仏の声が聞こえてきたとき、ではないでしょうか。「念仏まうさんとおもひたつ」のは、どこからか「南無阿弥陀仏」の声が聞こえてきて、否応なく「念仏まうさんと」促がされているのです。
 「南無阿弥陀仏」は「帰っておいで」と聞こえてくるものだと述べてきました。これはしかしまだ「信じる」ことの話です。「信じる」とは「聞く」ことでした。「そのまま生きていていいよ」と聞かせてもらって、もうすでに救われていることに気づく。これが「信じる」ということです。名号は阿弥陀仏の本願を「南無阿弥陀仏」の六字に約めて一切衆生に聞かせるものに他なりませんから、「南無阿弥陀仏」を「聞く」のは、本願を「信じる」ことに等しい。
 しかし問題は「南無阿弥陀仏」を「称える」ことです。聞名ではなく称名です。

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