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5月16日(木) [はじめての親鸞(その140)]

 「おはよう」や「こんにちは」の声が向こうから聞こえてきたとき、ぼくらはその声に向かって「おはよう」、「こんにちは」と返さずにはいられません。
 「おはよう」と言われて、すぐさま「おはよう」と返さずにはいられないように、「南無阿弥陀仏」と聞こえて、そのまま「南無阿弥陀仏」と返さずにはいられません。その時自分の口から「南無阿弥陀仏」の声が出ているのは間違いありませんが、自分が「南無阿弥陀仏」と称えているというよりも、「南無阿弥陀仏」自身が「南無阿弥陀仏」と称えているという感じではないでしょうか。
 京都・六波羅蜜寺の空也上人像はそれをみごとに造形しています。
 空也上人の口からは「南無阿弥陀仏」の声とともに小さな仏が次々と出てくるのですが、空也上人の表情をじっと見ていますと、空也上人が念仏しているには違いないが、それは実はどこからかやってきた「南無阿弥陀仏」が空也上人の身体を通り抜けてまたどこかに出ていくように感じられます。そして、空也上人の身体を通り抜けていった「南無阿弥陀仏」とは実は阿弥陀仏に他ならないのではないかと思えてきます。阿弥陀仏がいて「南無阿弥陀仏」があるのではなく、阿弥陀仏とは「南無阿弥陀仏」のことではないかと。
 ちょっと先走ってしまいました。「南無阿弥陀仏」は「おかえり」という仏の呼びかけですが、それは「ただいま」というぼくらの応答をおのずと伴うということでした。呼びかけはそれに応答する人がいてはじめて呼びかけとしての意味があります。田舎の親がわが子に「お盆には帰ってこいよ」と手紙を書いたのに、返事がなかったら不安で仕方がないでしょう。「おかえり」だけでは完結しません、それには「ただいま」が是非とも必要なのです。

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