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はじめての親鸞(その146) ブログトップ

5月23日(木) [はじめての親鸞(その146)]

 事情で更新が遅れました。阿弥陀仏以前も「なむあみだぶつ」はあったのかということでした。
 「なむあみだぶつ」が阿弥陀仏以前にあるわけないじゃないかと言われそうです。でも、そうだとしますと、阿弥陀仏以前の人たちと以後の人たちとの間に大きな溝があることになります。阿弥陀仏以前の人たちは阿弥陀仏の救いから見放されていることになります。これはしかし阿弥陀仏の願いに背きます。ですから「なむあみだぶつ」は阿弥陀仏以前からあったに違いありません。阿弥陀仏は悠久の昔からリレーされてきた「なむあみだぶつ」に「なむあみだぶつ」という形を与えただけです。
 法蔵菩薩の物語を思い出していただきたいと思います。法蔵菩薩は一切の衆生を救おうと誓い、世自在王仏にどんな国土をつくればいいか教えを乞われた。そして広く二百一十億の諸仏の国土をご覧になり、五劫の間思惟して四十八の願を立てられたのでした。これを見ますと「なむあみだぶつ」は阿弥陀仏の発明にかかるのではなく、それ以前の悠久の時間の中ではぐくまれてきた願いに新しい形を与えただけと考えるべきです。阿弥陀仏自身、悠久のリレーの一走者と捉えるべきです。
 こうして「なむあみだぶつ」には始まりも終わりもないことが分かります。そのことから本願は「海」に譬えられてきたのではないでしょうか、「本願海」というように。ぼくら一人ひとりのいのちには始まりと終わりがあります、一つひとつの河にも始まりと終わりがあるように。わずかな水の流れが源流となり、山を削り平野をうねって最後に海に流れ込んで終わりとなります。しかし海には始まりも終わりもありません。海はどこかで始まり、どこかで終るのではありません。海の水も同じところにじっとしている訳ではなく、ゆっくりと流れていますが、その流れには始まりも終わりもないのです。

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