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はじめての親鸞(その148) ブログトップ

5月25日(土) [はじめての親鸞(その148)]

 龍樹をはじめとする高僧たちからはその書物を通じて教えを受けたにすぎません。それに対して法然からは直々に親しく教えをこうむった。その喜びを親鸞は『教行信証』の後書きでこんなふうに記しています、「長い年月にわたって法然上人の教えを受けた人は数知れないでしょうが、上人の書かれた『選択本願念仏集』を書写することを許された人はごく限られています。ところがわたくしはそれを許され、しかも上人のお姿を絵に画くことまでできました」と。
 このように法然上人から直々に教えを受けることができた喜びを涙ながらに語っていながら、親鸞はその『選択本願念仏集』からたった一箇所しか引いていない。一番大事な人であるはずの法然をないがしろにしているのではないかとさえ感じます。これはしかしよくよく考えてみますと不思議でも何でもありません。親鸞と法然は不離一体なのです。親鸞は法然の専修念仏の教えを自分の信心体験をもとに跡付けようとしているにすぎないのです。
 親鸞はときどき真宗ということばを使いますが、自分が新しく浄土真宗を開くのだなどという意識は全くなく、ただただ法然の開いた浄土の真実の教え(真宗)を受け継ごうとしているだけです。もし自分自身がこれまでの浄土の教えを独自の立場で再構成しようというのなら、これまでの浄土の教えの中に当然法然も入り、それも最大のウエイトを置かなければならないでしょう。しかし親鸞としては、法然の専修念仏の立場に立って、これまでの浄土の教えを整理しているに過ぎないのです。としますと、法然の文を引くのはむしろおかしいということになります。

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