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はじめての親鸞(その151) ブログトップ

5月28日(火) [はじめての親鸞(その151)]

 『歎異抄』に面白いエピソードが記録されています。
 親鸞があるとき「わたしの信心と法然上人の信心はひとつ」と言ったというのです。これに誓観房や念仏房といった兄弟子たちが「もてのほかにあらそひたまひて」とありますから、よほどカチンときたと思われます。新参者の親鸞が、あろうことか法然上人と「信心はひとつ」だなどとよくまあ言えたものだということでしょう。
 法然上人の深い信心と、まだ入りたての親鸞の浅い信心とが「ひとつ」であるはずがないではないか、馬鹿も休み休みに言えというわけです。この争いに法然が断を下し、「わたしの信心も如来から賜ったもので、善信房(親鸞のことです)の信心も如来から賜ったものですから、ひとつです」と述べたというのですが、法然はこのとき「南無阿弥陀仏」のリレーのことを言っていたに違いありません。
 「称える」ことの最後に「一念と多念」の問題について考えておきましょう。
 これは、念仏は一回で足りるか、称え続けることに意味があるかという対立で、そのもとは経典にあります。第十八願に「わたしの名を十回も称えて(乃至十念)」とあることは何度も見てきましたが、その願いが成就したことを述べる箇所(第十八願成就文)には「阿弥陀仏の名をわずか一回でも称える(乃至一念)」とあるのです。このように一方では「一念」と言い、他方では「十念」と言われますと、一念か多念かと争いになるのは無理もないように思います。

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