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5月29日(水) [はじめての親鸞(その152)]

 先回あげました第十八願成就文もまたきわめて重要な意味を持っていますので、煩わしいようですが原文に当たっておきたいと思います。
 「諸有衆生 聞其名号 信心歓喜 乃至一念 至心回向 願生彼国 即得往生 住不退転」とありまして、親鸞はこれを「あらゆる衆生、その名号を聞きて、信心歓喜せんこと、乃至一念せん。至心に回向したまへり。かの国に生ぜんと願ぜば、すなはち往生を得、不退転に住せん」と読みます。
 「あらゆる衆生が阿弥陀仏の名を聞いて信じ喜び、わずか一回でも阿弥陀仏の名を称えるでしょう。このように阿弥陀仏が心から取り計らってくださっているのですから、浄土に往生したいと願えば、そのときに往生が定まり、もうそこから転げ落ちることはないのです」ということになります。
 これはしかしかなり無理な読みと言わざるを得ません。普通には「至心回向」で切ることなく、「至心に回向して、かの国に生ぜんと願ぜば」と読むところですが、それを親鸞は「至心に回向したまへり」と回向の主体を「あらゆる衆生」から「阿弥陀仏」へと転換してしまうのです。
 どうしてこんな無理筋とも言えるような読みをしなければならないか。親鸞にはそう聞こえたとしか言いようがありません。われら凡夫に「至心に回向する」などということは不可能だと思い知っているからです。親鸞はこのことばを解説する中で「至心は、真実といふことばなり、真実は阿弥陀如来の御こころなり」と語っています。ぼくらの中をどれだけ探しても、真実などというものはどこにも見当たらないと言うのです。

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