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はじめての親鸞(その153) ブログトップ

5月30日(木) [はじめての親鸞(その153)]

 さて、一念か多念かの問いですが、これは信か行かの問いと不可分です。
 ここでもう一度信と行の関係を確認しておきますと、信とは「名を聞くこと(聞名)」で、行とは「名を称えること(称名)」でした。そして聞名はおのずから歓喜を伴い、その喜びは称名という形となって外に表れます。信は信だけで完結することができず、おのずと行に繋がるのです。このように信と行は一つですから、信か行かという問いは成り立ちません。
 同様に、一念は一念で完結することができず、おのずと多念となりますから、一念か多念かという問いも成り立たないと言わなければなりません。
 どうして一念が一念で完結しないかと言いますと、ぼくらには煩悩があるからです。「そのままで救われる」の声が聞こえて、思わず「ようこそ、ようこそ」と喜ぶのもつかの間、その次の日にはつまらないことに腹を立てています。そしてまたふと「なむあみだぶつ」の声に遇い喜びに満たされる。こうして一念はおのずと多念になっていきます。
 はじめて聴く美しい歌声に心はうっとりし、その喜びは思わずハミングとなって溢れ出します。それはただひとたびのことですが、悲しいかなその喜びは日々の煩わしさの中に紛れてしまいます。そして、またふと同じ歌声が聴こえてきて、再び心は喜びに満たされる。というぐあいに、同じ経験を反復することになり、かくしてはじめの一念が反復され、おのずと多念となっていきます。
 多念といえども、そのそれぞれがはじめの一念なのです。それが反復されて、気がついてみると多念となっているだけ。

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