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はじめての親鸞(その155) ブログトップ

6月1日(土) [はじめての親鸞(その155)]

 今現に救われていないのに、もうすでに救われている。この矛盾をぼくらは日々生きています。今現に救われていないのは、煩悩の虫どもの所為です。にもかかわらず、もうすでに救われているのは、「そのまま生きていていい」という声が身に沁みるからです。
 救われていないのに、救われている。どっちなんだと言わないでください。どっちもなんです。
 ただひたすら救われていないのではありません。それではあまりに悲しすぎる。でもひたすら救われているのでもありません。それではあまりに喜ばしすぎる。やはり救われていないけれど、救われているのです。悲しいけれど、嬉しいのです。
 悲しみの量と喜びの量はつりあっているのではないでしょうか。ものすごく深い悲しみを持つ人は、それに見合う大きさの喜びを持っている。逆に、悲しみが少ない人は、その分喜びも少ないでしょう。
 「本願を信じ念仏をまうさば仏になる」(『歎異抄』)の、「願う」こと(第4章)、「信じる」こと(第5章)、「称える」こと(第6章)を見てきまして、最後の「仏になる」ことにたどり着きました。いよいよ先延ばしにしてきました「仏とは?」に明確な答えを与えなければなりませんが、これがしかし並大抵ではありません。次の第7章でこの問題を考えたいと思います。

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