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はじめての親鸞(その162) ブログトップ

6月8日(土) [はじめての親鸞(その162)]

 どうして宗教の道に入ることができないのか、森岡氏はこう言います、「私は“絶対の真理がすでに誰かによって説かれている”という感覚をもつことができない」と。そして浄土系の宗教について言えば、「“信者が死んだらあの世に往生するということ”がほんとうに正しいのかどうかについて積極的に疑いを停止し、それが正しいのだということで人生をやってみようとする」のが信仰だが、自分にはそういう態度をとることができないのだと。
 絶対の真理を受け入れ、その前では疑いを停止する。とりわけ死後の世界について断定的に語る。これが自分にはできない。
 彼の感覚は実に真っ当だと思います。あるとき教育テレビで「『歎異抄』を語る」という番組を見ることがありましたが、講師は阿弥陀仏や往生ということばをもう当たり前のものとして使っていました。阿弥陀仏が存在し、死んだら浄土へ往生できるということは彼にとって所与の大前提なのです。ぼくは思いました、彼はこの大前提を受け入れている人、つまり信者だけに語りかけているのだと。「阿弥陀仏って何だろう?」、「浄土なんてあるのかな?」と思っている人、例えば森岡氏などはもう最初からお呼びじゃないのです。こうしたセクト性が宗教にはまとわりついています。
 さて「死後の世界」についてです。
 確かに浄土の教えには、極楽浄土に往生するにせよ、六道に輪廻するにせよ、あの世があるという大前提があります。死とは無になることではなく、この世とは別の世界に行くのだと。しかしどうしてそのようなことが言えるのか。誰一人として死後の世界を見てきた訳ではないのに、何故そのように「断定的に語る」ことができるのか。

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