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はじめての親鸞(その168) ブログトップ

6月14日(金) [はじめての親鸞(その168)]

 寝苦しい夜でした。
 
『歎異抄』で親鸞はこう言っていました、「結局のところ、愚かな身の信心というものは、こんなものです。この上は、念仏をとって信じられようと、あるいは捨てられようと、みなさんお一人おひとりのお考えです」と。「私はこう聞きました、あなたはどう聞きますか」と自分の身体を通して経・論と向き合うことを求めているのです。
 本題に戻ります。
 親鸞の力点は「来生の往生」ではなく「今生の往生」にあるということを見てきました。そこに親鸞の醍醐味があると。しかし、これまでも感じられたと思いますが、ことは実に微妙で矛盾に満ちています。「信が定まったそのときが来迎のときである」とか「身は穢土にあっても心は浄土にある」とか「今生に往生する」とか、まかり間違えばとんでもない妄言につながる言い回しです。微妙な「あわい」を綱渡りするような感じです。
たとえば、「身は穢土にあっても心は浄土にある」と言われますと、何だか分かったような気になりますが、しかし身と心をそんなにうまく分けられるものでしょうか。
 そもそも煩悩の虫ども、欲しがり虫や怒り虫どもは心の中に棲んでいるのでしょうから、「心は浄土にある」を額面どおりに受け取るわけにはいきません。身も心も穢土にあるのです。しかしその穢土が穢土のままで同時に浄土でもあるという不思議に何とかしてことばを与えなければなりません。

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