So-net無料ブログ作成
検索選択
はじめての親鸞(その169) ブログトップ

6月15日(土) [はじめての親鸞(その169)]

 大乗仏教の極意とでも言うべきことばに「生死即涅槃」あるいは「煩悩即菩提」があります。これは「身は穢土にあっても心は浄土」と同じことを言っているのでしょうか。「そうだ、同じだ」と言いたいところですが、そう言ってしまいますと親鸞の味わいが消えてしまうような気がするのです。
 「生死即涅槃」と言いますと、そこにはしんと静まりかえった世界が広がっています。生死の世界も、その実相をよくよく見れば、実は涅槃の世界なのだと悟り済ましているのです。ところが「身は穢土にあっても心は浄土」の方は、穢土と浄土の狭間で悟りきれずばたばたしています。生死と涅槃の矛盾の中でもがいているのです。
 親鸞はときどき深い嘆息を漏らします、「悲しいことに、わたくし愚禿親鸞は愛欲の煩悩に溺れ、名利の迷路をさまよって、正定聚の中に入ったことを喜べません。真実のさとりに近づいたことを楽しめません。恥ずかしいことです。情けないことです」などと。一方では、もうすでに救われていることに気づき、そこに突き上げるような喜びを感じながら、しかし同時に愛欲や名利の世界でもがき苦しんでいる自分を見つめている。この矛盾に満ちた動の世界こそ親鸞の世界です。
 さて、穢土が穢土のままで同時に浄土でもあるという不思議を、有名な「二河白道の譬え」で味わってみましょう。
 「一人の旅人が西に向かってはるかな旅路を急いでおりましたところ、突然目の前に二つの河が現れました。一つは火の河で南にあり、二つは水の河で北にあります。二つの河はいずれも幅百歩で、それぞれ深くて底が見えません。また南北に果てしなく続いております。その水火の河の中間に一本の白い道があります。その幅は四、五寸もあるでしょうか。この道は東の岸から西の岸まで、その長さはまた百歩あります。北からは波浪が道に押し寄せ、南からは火焔が道を焼きます。水と火があいまじわってつねに襲い、ひと時も休むことがありません。」

はじめての親鸞(その169) ブログトップ