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はじめての親鸞(その170) ブログトップ

6月16日(日) [はじめての親鸞(その170)]

 古来この善導の譬えはしばしば絵にあらわされてきました。世界は幅百歩(30メートルほどでしょうか)の水火の河で東西に二分されています。東岸は穢土で、西岸は浄土です。そしてその両岸をつなぐように幅四五寸(15センチほど)の白い道があります。北側は水の河、南は火の河で、道の両側から波浪と火焔がかぶさってきます。何とも危うい道ですが、西に向かう旅人は後ろから群賊悪獣にせめたてられ、こう思うのです、
  「われいまかへるともまた死せん、住するともまた死せん、ゆくともまた死せん」。
 進退窮まったそのときです、東の岸から不思議な声が聞こえてきます、
  「きみただ決定してこの道をたづねてゆけ。かならず死の難なけん、もし住せばかならず死せん」。
 また西の岸にも人がいてこう呼びかけてきます、
  「なんぢ一心正念にしてただちにきたれ、われよくなんぢをまもらん。すべて水火の難に堕せんことをおそれざれ」。
 東岸からは「そのまま行きなさい、そうすれば救われる」の声が、そして西岸からは「そのまま来なさい、救おう」の声が聞こえてくる。東岸の声の主は釈迦、西岸の声の主は弥陀です。
 よくできた譬えだと思います。旅人の耳に「そのまま来なさい、救おう」の声が届き、白道に一歩踏み出したとき、旅人はもう救われたのです。まだ西岸ははるか向こうです。波浪と火焔(これは貪愛と瞋憎を譬えています)で西岸は見通せないかもしれません。でも白道に一歩踏み出したとき、彼はもう救われたのです。
 この白道は、まだ浄土ではありません。でも、もはや穢土ではありません。穢土でもなく浄土でもない不思議な世界です。どちらでもないが、裏返せば、どちらでもある。

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