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はじめての親鸞(その173) ブログトップ

6月19日(水) [はじめての親鸞(その173)]

 「仏になる」と「仏である」とは紙一重です。だからこそ親鸞は「信心の人をば、諸仏にひとし」と言うのです。親鸞は「ひとし」と「おなじ」とを厳密に区別して使い、「諸仏にひとし」とは言っても「諸仏とおなじ」とは決して言いません。「諸仏とおなじ」と言ってしまいますと、信心の人と仏とがぴったり重なってしまうのですが、「諸仏とひとし」ですと、紙一重の差があるのです。
 その紙一重の差というのは、われわれから見るか仏から見るかの違いです。われわれからしますと「仏になる」としか言えません。でも仏からすれば「仏である」のです。おたまじゃくしからしますと「もうじき蛙になる」としか言えませんが、蛙からすれば「そのままでもう蛙である」のです。あるおたまじゃくしが「もうじき蛙になれる」と希望に胸を膨らませていたとしましょう。ところが蛙になる直前に魚にパクッと食べられてしまった。あわれ希望が叶えられずに終ってしまったのですが、でも考えてみますと、おたまじゃくしはもう蛙であったのですから希望は実はもう叶えられていたのです。
 「仏になる」と「仏である」。
 先ほどこう言いました、「仏になる」と「仏である」とは別のことではないが、われわれからすれば「仏になる」としか言えないと。われわれが「このままで仏である」などと言えば、とんでもない妄言になります。「そのままで仏である」とは仏のことばとして向こうから聞こえてくるのであって、決してぼくらの発することばではありません。「あなたはそのままで仏です」と聞こえるのです。それを「わたしはこのままで仏です」としてしまいますと、唯円さんに「それは即身成仏の教えです」と叱られます(『歎異抄』第15条)。

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