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6月21日(金) [はじめての親鸞(その175)]

 ところが厄介なことに、「仏とは何だろう、よく見てみよう」と近づこうとしても、こちらから近づくことはできないのです。仏は向こうから近づいてくるだけで、こちらから近づくことができない。
 思い出していただきたいのですが、救いはこちらから手に入れようとしても、するりと指の間からすり抜けてしまうものでした。救いはこちらから近づくことはできず、向こうから近づいてくるだけだということ、これまでそのことを言い続けてきたのです。
 ぼくらはどうしても対称性にとらわれます。こちらからと向こうからとは対称的だと考えるのです。
 太郎と次郎がいるとします。そして太郎から次郎に何らかの働きかけがあるなら、当然次郎から太郎へも何かの働きかけができると思います。太郎から次郎への働きかけがあるだけで、次郎から太郎へは何もできないのはおかしいと。勿論こちらからと向こうからとの間に不均衡がある場合はあります。太郎の力が圧倒的に強い場合は、次郎は何もできずただ従うだけかもしれません。でも従うのも一つの働きかけです。
 向こうから近づくだけで、こちらから近づけないようなケースはないだろうかと妻に問いかけて「相手が匿名の場合はどう?」という答えを得ました。なるほど相手が匿名ですと、向こうから働きかけてくるだけで、こちらからは何もできません。
 しかし、わざわざ匿名にするということは、何かの事情があって、働きかけられるのを拒絶しているのですから、これは対称性を否定している事例というより、むしろそれを裏書していると言わなければなりません。関係は対称的だからこそ、何とかして一方的な関係にするために自分の姿を隠しているのです。

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