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はじめての親鸞(その176) ブログトップ

6月22日(土) [はじめての親鸞(その176)]

 辺りを見回しますと、どんな関係も対称的だと思えます。そこから、仏がぼくらに救いをもたらしてくれるからには、ぼくらも仏の姿を捉えることができるはずだと思うのです。向こうから近づいてくるからには、こちらからも近づけるはずだと。
 かくして「仏はいずこに」と探すことになります。でも、どんなに頑張っても仏の姿を捉えることはできません。仏とぼくらは対称的な関係ではないからです。仏からぼくらへのベクトルがあるだけで、ぼくらから仏へのベクトルはありません。
 よく仏を「大きな宇宙の生命力」などと表現することがありますが、これは仏を無限なものと捉えています。しかし無限って、どういうことでしょう。1に1を加えると2で、さらに1を加えると3、さらに1を加えると…、これをどこまでも繰り返すと無限に至るのでしょうか。1を加えるという作業は好きなだけ続けることができますから、その意味では無限ですが、しかしそれをどこまで続けても同じ数直線の上です。
 若者に「きみには無限の可能性がある」と言います。このことばに水を差す気はありませんが、しかし可能性は無限でも現実はあくまで有限です。どこまでも1を加え続けることは可能ですが、どこまでいっても有限の外部に出ることはできません。
 どうにも仏に接近する方法はないと言わざるを得ません。しかし「仏とは何か」は浄土の教えの根幹に関わる問いです。本願を信じ念仏をすれば救われる―これが浄土の教えだと言われても、そもそも本願の主である阿弥陀仏とはどんな存在なのか、これが分からないとはじまらない、と思います。

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