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はじめての親鸞(その177) ブログトップ

6月23日(日) [はじめての親鸞(その177)]

 阿弥陀仏とはどんな存在なのか、これが分からないとはじまらないと思い、いろいろな本を読むのですが、どうもまともに答えてくれるものに出会えません。そんなふうに問うこと自体が間違っているのだ、信心とはそういうものではないと言われたりします。
 そうか、ほんとうの信心をもてたら、そんな疑問は消えてしまうのかと思いますが、しかしほんとうの信心をもつにはどうしたらいいのか、そのためには阿弥陀仏とは何かが分からなければ…、といつまでも同じところを堂々巡りです。
 親鸞もなかなかこの問いに真正面から答えてくれませんが、あるところ(『末燈鈔』第5通、いわゆる「自然法爾章」)で思い切った言い方をしています。
 「弥陀仏は自然のやう(様)をしらせんれう(料)なり」
 「自然」とは「おのずからしからしむ」ということで、くだいて言いますと、救いはこちらから手に入れようとはからうものではなく、向こうからおのずと与えられるものだということです。そして阿弥陀仏はそのことを知らせんための「れう(料)」であると言います。
 「料」を辞書で調べてみますと、「①用いるための物。材料。用品。②ある目的のためのもの。③費用。④ため。ためのもの」とあります。としますと、阿弥陀仏というのは、救いは向こうからおのずと与えられるということを分かりやすくするための手立てだということになります。
 ずいぶん思い切った発言です。これは取りようによっては、阿弥陀仏なんてどこにもいませんよ、ただ救いは向こうからということを分かりやすくするための方便としてしつらえられているだけですと聞こえます。

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