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6月26日(水) [はじめての親鸞(その180)]

 「阿弥陀仏はどこにおわす?」と問うとき、阿弥陀仏という固有の存在がこの時空のどこかに存在していると考えています。何かが存在するということは、時空のどこかに位置を持っているということです。
 ぼくが存在するということは、いつか、どこかに存在するということです。ですから、いつ、どこにいるか、そのアリバイを証明することができます。アリバイが証明できるということは、ぼくの存在はぼくにとってだけではなく誰にとっても確かだということです。客観的な事実だということです。
 ところが阿弥陀仏は、ある人に「そのまま生きていていい」と呼びかけてくれる「あなた」ですから、その人にとっての「あなた」でしかありません、他の人にとってはただの人に過ぎないのです。あるとき太郎が次郎にとっての「あなた」となりますが、三郎にとっては太郎はただの太郎に過ぎません。このように「あなた」は、いつ、どこにいると特定することはできません。
 阿弥陀仏とはある人に「そのまま生きていていい」と呼びかけてくれる「あなた」ですが、その「あなた」は「あなた」自身にとってもただの人だということを忘れるわけにはいきません。どなたかがぼくの阿弥陀仏になってくださいますが、その方自身にとって自分が阿弥陀仏など滅相もないことでしょう。
 こんなぼくも、ある時どなたかの阿弥陀仏になることがあるかもしれませんが、それは、その方にとってであって、決してぼくにとってではありません。どんな人も、他の誰かにとっての阿弥陀仏になりますが、その人自身にとっては阿弥陀仏どころか、煩悩まみれの哀れな凡夫にすぎないのです。

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