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6月27日(木) [はじめての親鸞(その181)]

 こう見てきますと、阿弥陀仏はどこにでもおわしますと答えることができます。すぐそばにいる「あなた」が阿弥陀仏です。でも、その「あなた」は「あなた」自身にとっては煩悩具足の凡夫ですから、その意味ではどこを見ても凡夫ばかりと言うこともできます。どこにも阿弥陀仏はおわしません。
 阿弥陀仏はどこにもおわしまし、どこにもおわしまさない。
 「一切衆生悉有仏性」ということばがあります。生きとし生けるものの中に仏が宿っているということで、大乗仏教のエッセンスとも言うべきことばです。しかし仏性なんてどこにあるのだろうと自分の心を必死に覗いてみても、見つかるのは煩悩ばかりです。仏性というものは内部からは見えないのです。仏性は外部からしか見えません。
 もう一度「阿弥陀仏はどこにおわしますか」という問いに戻りますと、親鸞は「微塵世界に満ち満ちたまへり」(『唯信鈔文意』)と答えます。「ほら、あなたのすぐ傍におわします」と。でもその「あなた」をつかまえて、「あなたこそ、ぼくの阿弥陀仏です」などと言おうものなら、「滅相もない、わたしはただの凡夫です」と否定されるでしょう。つかまえたと思ったら、するりと指の間から逃げられてしまう。これが「かたちもなくまします」ということです。
 親鸞は「弥陀仏は自然のやうをしらせんれうなり」と言ったあと、それが腹におちたら「自然のことはつねにさたすべきにはあらざるなり」と言います。「ああでもない、こうでもない」と言い募るべきだはないと。これは「語りえぬものについては、沈黙せねばならぬ」(ヴィドゲンシュタイン)というより、もっと積極的な意味を込めてのことばだろうと思います。「こちらから」沙汰するようなことではなく、「向こうから」沙汰していただいているのだと言いたいのではないでしょうか。

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