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6月28日(金) [はじめての親鸞(その182)]

 「はじめなく、かたちなき」仏を認識できないと嘆くのは「こちらから」仏を捉えようとしているからです。しかし仏はそのようにして捉える必要などありません。「向こうから」ぼくらを否応なしに捉えるからです。
 曽我量深氏のことばでは、ぼくらが仏の実在を証明するのではなく、仏がぼくらの実在を証明してくれるのです。金子大栄氏ならこう言うでしょう、仏の存在を確認してから、それではと「南無阿弥陀仏」を称えるのではなく、「南無阿弥陀仏」を称えることで仏の存在を確認するのだと。
 ぼくらは阿弥陀仏には遇えません、「南無阿弥陀仏」に遇えるだけです。ぼくらが「阿弥陀仏よ、阿弥陀仏よ」と探し回っても、どこにも見つかりません。ところが、ふと「南無阿弥陀仏」の声が聞こえてくるのです。このとき、はじめなき阿弥陀仏がはじめを持つのです。もし「はじめなく、かたちなき」阿弥陀仏がいるだけで「南無阿弥陀仏」がなければ、ぼくらはいつまでも阿弥陀仏とは無縁のままかもしれません。
 キリスト教の場合も同じでしょう。もしイエスが十字架に架けられなければ、いつまでたっても神の愛は気づかれないままであったに違いありません。「はじめなく、かたちなき」神は、十字架上のイエスとしてはじめを持ったのです。
 ある時、ふと「南無阿弥陀仏」の声がして、阿弥陀仏の光明に気づく。その時に阿弥陀仏の光明が生まれたのではありません。阿弥陀仏の光明にははじめも終わりもありません。不生不滅です。はじめも終わりもない光明に、いま気づいたのです、「ああ、もうすでに救われているのだ」と。この「もうすでに」は、「過去のある時に」という意味ではありません。光明に包み込まれていることには、はじめも終わりもないのですから。はじめも終わりもないものが、いまはじまったのです。不可思議と言うしかありません。

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