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6月30日(日) [はじめての親鸞(その184)]

 「わたしが代わりましょう」ということばは「生きんかな」からは出てこないことばです。
 アウシュビッツの生き残りの証言を読みますと、どんな状況に置かれても最後の最後まで「生きんかな」とする人々のことが語られています。そして「生きんかな」同士がぶつかり合って、どれほど見苦しい情景がさらけ出されるかが語られています。これは悲しいことですが、理解はできます。自分もそういう状況に置かれたら、きっとそうなるだろうなと思わざるを得ません。
 これが「わたし」の世界です。そこに突然「生かしめんかな」の声が届いた。この「生かしめんかな」の声を届けてくれるのが「あなた」です。コルベ神父はその場にいた人たちの「あなた」になったのです。そしてそのことばを伝え聞いた世界中の人々の「あなた」になったのです。この世界には「わたし」だけでなく、「あなた」もいることを示してくれた。
 「わたしが代わりましょう」ということばは、紛れもなくコルベ神父の口から出ました。でもそのことばはコルベ神父のことばと言っていいでしょうか。
 コルベ神父も一人の人間として「生きんかな」を持っているはずです。もし彼が「生きんかな」をすべて断ち切っていたとしますと、もう彼はこの世の人ではないでしょう。この世にいる以上、思うこと、すること、みな「生きんかな」から発しています。もし「生きんかな」がすべて無くなってしまったら、その人はもはや存在しているとは言えません。「われ生きんかなと思う、故にわれあり」なのですから。

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