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はじめての親鸞(その185) ブログトップ

7月1日(月) [はじめての親鸞(その185)]

 コルベ神父も一人の人間として生きている以上、「生きんかな」としていたに違いありません。餓死室に入れられてからも「水が飲みたい」「パンを食べたい」という思いに苦しめられたに違いありません。
 聖者を普通の人間に貶めようというのではありません。彼だってただの人間じゃないかと引きずりおろしたいのではありません。逆です。ぼくらと同じように「生きんかな」としているにもかかわらず、「生かしめんかな」の声に従ったところに彼の偉大があるのです。
 もし彼に「生きんかな」がそもそもないのなら、彼がそういう特殊な人なら、「わたしが代わりましょう」ということばは不可思議ではありません。そうではなく、彼にも「生きんかな」があるはずだから、そのことばが不可思議なのです。
 「わたしが代わりましょう」ということば、「生かしめんかな」の声は、コルベ神父の口から出たのは間違いありませんが、コルベ神父のことばではありません。では誰のことばか。「あなた」のことばです。
 コルベ神父自身にとっても「わたしが代わりましょう」ということばは、「わたし」のことばではなく、「あなた」のことばです。彼はただ「あなた」のことばをそのまま受け渡しただけです。
 コルベ神父は、「わたしが代わりましょう」という声をその場で聞いた人たち、いや、そのことばを伝え聞いた世界中の人たちの「あなた」になったのですが、しかし彼自身が「あなた」ではありません。
 もし誰かがコルベ神父に「あなたがあの人を救ったのですね」と言えば、コルベ神父はこう答えるでしょう、「とんでもない、わたしはただ、どこからか聞こえてきた声に従っただけです」と。彼もまた「あなた」の声、「生かしめんかな」の声を聞いたのです。そしてその声のままに彼の身体が動いた。


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