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はじめての親鸞(その189) ブログトップ

7月5日(金) [はじめての親鸞(その189)]

 「正信偈」(『教行信証』行巻の末尾につけられた「信心と念仏の詩」です)の最後に「道俗時衆、共に同心に」ということばが出てきます。「道俗」とは、出家・在家を問わずということです。「時衆」とは、今の世の人びとということで、「出家・在家に関係なく、皆の衆よ」と呼びかけているのです。
 この「道俗時衆」ということばには重い意味が込められています。一方に出家がいて、他方の在家を救うのではありません。それでは救う側と救われる側とに分かれてしまいます。そうではなく、僧も俗も関係なくみんな「なむあみだぶつ」に救われるのだと言っているのです。
 これは「同朋、同行の思想」と呼ばれますが、ルターの「万人司祭説」を思い起こさせます。ルターは、人が救われるのは神の恩寵によるのであり、それを信じることによってのみ義とされると説き、神と人とを取り次ぐものとされてきた教会と聖職者の宗教的権威を否定したのでした。これがヨーロッパの歴史を大きく変えたことはよく知られています。この思想と親鸞の同朋、同行の思想との類縁性は誰の目にも明らかですが、その一方で両者には本質的な違いがあります。
 どちらも救いは「向こうから」やってくると説きます。「こちらから」手に入れるのではなく「向こうから」与えられる。ルターの場合は「神から」でしょうし、親鸞の場合も「阿弥陀仏から」。ここから親鸞の思想、もっと広く浄土教の思想はキリスト教などの一神教に近いところがあると評されることになるのですが、それは肝心なことを見落としていると言わなければなりません。
 確かに「阿弥陀仏から」には違いありませんが、阿弥陀仏とは誰あろう、ぼくらのすぐ傍にいる「あなた」に他なりません。「あなた」の口から出る「南無阿弥陀仏」の声に救われるのです。

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